10年近く前、冬のウィーンを訪れた時はまだ
ウィーン中央駅は無かった。
2014年の12月、南駅の近くに中央駅に建替えられた。
ベルリン中央駅にも似ている。
高速鉄道、在来線、地下鉄が立体的に入り込んでおり、
建物構造はHEAVYである。
数百年は持つように建てているのだろう。
ホテルを中央駅の近くに取っておいた。
7/10の夜は、ステファン寺院で、ヴィヴァルディの四季を
メインにした弦楽四重奏のコンサートに出かけた。
弦の音が暗く、小さく、大きな寺院内に響き渡らない。
やはりミサ曲のように、大編成の方が教会のコンサート
には効果があるように思う。
残音もビックリ。
7/11は朝一にモーツァルトの埋葬地、セント・マルクス
共同墓地に出かけた。
坂を自転車で降りてきた管理者風のおじさんが
「モーツァルトだろう ? 」 うなづくと、指で案内してくれた。
場所は容易にみつけられた。マリア・カラスの時は
苦労したのに。。。。。
埋葬場所は特定できないが、碑の近くなんだろう。
やはり、誕生した部屋と同様に特別な感情が沸いて来る。
小さな、簡素な碑も、彼の最後にふさわしい。
ヴェルヴェデーレ宮殿へ、クリムトの「接吻」を観に行った。
楽しみにしていた。
クリムトは大好きだ。
不思議な魅力を感じる。
続いてモーツァルトがウィーンに出て、最もブレイクして
いた時期の館、「モーツァルトハウス」に行った。
その頃は、今なら数千万円の年収があったようだ。
そのあと、美術史博物館へ。
ブリューゲル、デューラーの絵画を堪能した。
デューラーがあらためて好きになった。
午後6時からはモーツァルトハウスで弦楽四重奏の
コンサート。
隣席のおばさんが、「昨日もモーツァルトのお墓にお花を添えたのよ」 と。
私 「今朝、行ったんです」。 意気投合してしまった。
3日目の7/12、シェーンブルン宮殿、及び隣接している
動物園に出かけた。
ウィーンは堪能できた。
モーツァルトが生まれた部屋、ブレイクした館、そして
埋葬された墓地を、今回通しで見る事ができた。
帰国したら、再度モーツァルト研究にチャレンジしよう。
あのハイドンがモーツァルトの事を、スキルとセンスが
ピカイチと、彼のお父さんに言った。
センスとは何なんだろう ?
私は「創造力」に近いものだと思う。
芸術を鑑賞する事により、自分の仕事、人生をより創造性
のあるものにして行きたい。
ライトアップされたステファン寺院。
モーツァルトの埋葬地は
セント・マルクス共同墓地にあった。
オイゲン候の夏の別荘、ヴェルヴェデーレ宮殿
ザルツブルグとウィーンのほぼ中間にあるリンツに
移動した。
人口は19万超で、グラーツに次いでオーストリア第3の
都市である。
モーツァルトは交響曲「リンツ」を書いた。
3日間で書き上げた館がモーツァルトハウスとして
残っていた。
探し当てるのに一苦労だった。
聞いても知らない人が多い。
逆に外国の旅行客の方がよく知っている場合も、
日本でもよくある。
中に入れないので、特に感想はないが、見つけた事に
満足 !!
ボタンを押すと、交響曲「リンツ」が流れてくる装置があった。
Hanse Yachtsディーラーミーティングが、7/13-15ドイツの
工場で行われる前に、例年のごとくプライベートな旅を
7/8から楽しむ事にした。
ザルツブルグ一泊、リンツ一泊、ウィーン二泊、そして
寝台列車でベルリン経由工場のあるグライフスバルトへ
、ウインクレルの的野氏らとは現地集合。
もっともっと、モーツァルトを深掘りしたい。
夏のザルツブルグ、ウィーンにも行ってみたい。
二つの理由で、このような旅になった。
7/18から始まる約一か月半の、「ザルツブルグ音楽祭」の
前でも、観光客が多い。
物乞いも多い。
ヨーロッパ中から集まるのか? (笑)
やはりモーツァルト一色である。
同郷の指揮者カラヤンの存在感は、全くなし。
これほど、後世に尽くした天才は、他にはいないだろう。
死ぬときは、乞食同然の扱い方をされたのに。。。。
人口15万にも満たないこの町に国際空港、ブランド通り、
そして多くのコンサート会場、高級ホテル等々。
彼の生まれた家、生活した家をもう一度訪ねた。
特に生まれた部屋は、何か特別なものを感じた。
天才が生まれた事により、平穏なモーツァルト一家の
生活は、激変していく。
そのスタートの場所にもなるから。
雨模様のホーエンザルツブルグ城塞。
大きなあじさいが美しい。
モーツァルトの住居。
再建されたものだから、臨場感は少ない。
3/28(土)、ピオン30の回航為、四国・仁尾マリーナに出掛けた。
3月は、4隻の引渡しを無事に終え、月末の支払いも
済ませ、気分はスッキリ。
広島観音マリーナまで70マイルを、2日間で回航する。
雨が降れば、出港を延ばすつもり。
なんと贅沢な回航なんだろう。
案の定、出港予定の翌日は雨。
マリーナでハンゼ385のオーナー藤波様と夜中の2時まで
飲んで、このGWの五島列島クルージング談議。
私はシングルハンドが大好き。
そう、自由を誰よりも求めるから。
40年以上も前に、ヨットで上陸したあの島々。。。
ヨットレースで駆け回ったこの海面。。。
シングルだからこそ、じっくり想いを駆け巡らせる。
懐かしさと同時に、いまだ海に出ている自分を
これからも応援していきたい。
手の届く場所に、いつも七つ道具を
1月のデュッセルボートショウでドイツに滞在時、日本から
1本の電話が入った。
アダムス40のオーナーからであった。
要件は売却依頼である。
昨年、あるブローカーに頼んだのだが、結果が出ない。
帰国後、保管場所の大分マリンピア・むさしに出向いた。
世界周航のアルミ艇は、日本ではもうなかなか売れない
のでは ? 直観的に感じた。
3人目の見学者が、韓国のビジネスパートナーYOON氏
であった。
彼は世界一周の実績があるので、お客さんの中には
彼に続きたい人がいたようだ。
なんとか3月末までに、売却できホットした。
最近は売却依頼が多い。
売却理由はいろいろあるが、今後もなんとか
OWNER方の力になりたい。
美しいシヤーラインのアダムス40
韓国で活躍してほしいものだ
3/5 - 3/8の4日間、 横浜国際ボートショウに出かけた。
ウインクレル(株)ブースの、営業応援である。
昨年に比べ、フローティング会場はボートが増え、
しかも大型化し、ヨットは少し減り、小型化になって
いるように感じた。
株で儲ける人は、やはりボート派なんだろうか。
日ごとに寒さが増し、新調のダウンが大活躍。
おかげで風邪をひかず、楽しく営業ができた。
昨年の11月、リヨンオペラ座の首席指揮者、大野和士の
コンサートに出かけた。
一度、このフランス第2の都市に行ってみたくなった。
幸い、モーツァルトの「イドメネオ」も上演中なので、パリの
後に行く事で、即決定。
ホテルに着いてから、例のごとくオペラ座の往復。
地下鉄を利用すれば、ほとんど夜道を歩く必要なし。
オペラ座は1993年に新装オープンした、ガラス張りの
建物。場内は黒一色。
ちょっと違和感を持ってしまった。
やはり地方のオペラハウスでは、予算の関係上なのか、
演出を現在風に簡素にしているので、オリジナルと
比較すると戸惑ってしまう。
途中でコックリとなってしまった。
翌日24日のフライトは、17:30リヨン発。
出発前、町を一望できるフルヴィエールの丘に登った。
ソーヌ川、ローヌ川の間にできたリヨンは、ルネッサンス
様式の美しい町である。
近代的な高層ビルも建設中であるが。
日本を含めアジアの建物は、昔を壊し建替えをしている。
街に立っていても、歴史の連続性を感じられない。
スタッフの衣装も、黒ベース
やはり高いところは、快感
・ ピカソ美術館
昨年のパリでは、ピカソ美術館が改装の為、休館であったが、今年やっと見る事ができた。
会場入り口は長蛇の列。
1985年に開館したピカソ美術館は、パリで死後相続税と引き替えに、フランス国家に寄贈されたものだ。
200点余りの絵画、彫刻、約3000のデッサン、88の陶器は、ピカソ91年間の歴史を感じる美術館は、他にはないだろう。
他国出身の画家・音楽家達が、パリで活躍し、そしてパリで死んでいく。
多くの作品がパリに残り、そしてすばらしい美術館が生まれる。
その墓地も含めて、魅力的な芸術観光都市になっていく。
パリは芸術家にとって、今でも魅力的な都市なんだろう。
いや、一般人にとっても。
歩いてみれば、他国人が多い。
フランス国家の包容力なのか、それとも理念なのか。
これからの日本の姿、いろいろ考えさせられる。
もう遅いかも 。。。。
理念のない国家は、いつも目先の損得に流される。
大天才に共通して言える事は、「多才」 である。
ダ・ヴィンチ、モーツァルトがそうであるように。
ピカソも例外ではない。
あの目の迫力、人生最後まで製作への意欲。
言動はまるで、哲学者の様。
「ラファエロのように描くには4年あれば十分、しかし子供
のように描くには一生かかる。」
際立つ、デッサン力
ピカソ本人、お気に入りの 「女性頭像」
・パリオペラ座(ガルニエ)
デュッセルドルフボーショウを、4日間見学した後、昨年と
同様パリ、そしてリヨンに立寄る事にしていた。
パリではパリオペラ座(ガルニエ)で、モーツァルトの
「後宮からの逃走」、そしてビカソ美術館。
デュッセルからパリまでの切符が、駅窓口では発券できず
指定のSITEにアクセスするが、ラチがあかない。
ボートショウ会場で出会った、ヨットデザイナー大橋さんが
良く使う購入SITEを教えてもらい、ウイクレルの的野氏の
手助けで切符手配 OK。
多国間を走る列車の場合、切符購入方法が違うのだろう。
言われてみれば、ごく当然。
一瞬どうなのか心配だった。
分かったのが当日でなく、前日でよかった。
何事も早めに !!
一月の初旬、パリでのテロ事件の影響で、いたるところに
警察、軍が機関銃を構えている。
今はかえって安全なのかも。。。。
ホテルに入ってから、明るいうちにオペラ座まで一往復。
帰りが夜11時ごろになるから。
歩いて帰っても安心であること、確認できた。
私は A 型 。 (笑)
このオペラの聴きどころは、捕らわれた女性コンスタンツェ
が歌う2つのアリア。
コンスタンツェ役には、メトロポリタンオペラハウス教習生
出身で、彗星のようにチャンスをつかんできた、
コロラテューラ・ソプラノのキューバ系アメリカ人、
リセッテ・オロペサ。
若干32才の、これからが旬なオペラ歌手である。
細身で、小柄でとても美しい。
清純な役が似合うのだろう。
まだまだグルヴェローヴァのようには歌えないが。。。。
DVD等では、どちらかというと昔の歌手のものが多いが、
有名なオペラハウスに行くと、世界中を飛び回っている
旬な歌手と出会う事がてきる。
ライトアップした世界で最も美しいオペラハウス
ナポレオンⅢ世の命で1875年完成
36歳のシャルル・ガルニエ設計
建物中央にはモーツァルトの名前が
1964年、シャガールが手掛けた天井画
回りとの融合が絶妙
中央の茶色の衣装が、リセッテ・オロペサ
METライブビュー、ビゼーの「カルメン」を観に出かけた。
オペラの中でも、傑作中の傑作である。
カルメンが最初の恋人、軍隊の伍長ドン・ホセと、一夜を
楽しもうとしたとき、帰営のラッパが聞こえてきた。
帰ろうとするドン・ホセに、カルメンは激怒し、痛烈に
軽蔑する。
自由奔放に生きているカルメンにとって、組織と時間に
がんじがらめになっている、ドン・ホセに我慢が
ならなかったのだろう。
振り返って、現代の世の中、自由に生きる事は
なかなか難しい。
それとも、あえて自由を捨てて安定を、
求めたいのだろうか ?
やはり私は自由に生きたい。
そして、その源を得る為に、働きたい。
グルジアのメゾソプラノ、アニータは「カルメン」にぴったり